私と君はつながっている
作者:鈴乃あみ
北国の冷えきった中学校の廊下は、教室との温度差で結露していた。
ダルマストーブに乗っけたヤカンがけたたましく鳴る音を聞きながら、私は慌てて階段を駆け上る。
柄の幅広い刷毛を何本も持ちながら、キャンバスを3枚も。
寒さで悴んだ手にはつらい。指がプルプルしている。
上履きがきゅっきゅ、とリノリウムの床を擦る音も不確かに、廊下を駆け出す。
クラスがひとつしか無い3年生のフロアの先、ど田舎のボロ学校のボロ美術室には、部員が5人しかいない。
とっくに3年なんて引退の季節だというのに、道具を運んでいる3年生がここにいるのだからお察しして欲しい。
「きゃ!」
床の私の足の間でひときわ、キュッ! と叫び声が鳴った。
それに合わせて私の悲鳴も飛び出る。
キャンバスも刷毛も一メートル先に投げ飛ばされ、カラン、カランと虚しい音を立てた。
「った……、た」
はぁ、なんにもうまくいかない。
手をついたまま、なんとなくぼうっとしてしまう。
もう引退を迫られる3年生の私が、未だ尚、部長としているのは、3年最後のコンクールに惜しくも遅れを取って入賞ならずだったからだ。
みっともなくしがみつく私に、次期部長は早く座を譲ってくださいよ~、とゆるく、でも確実なクレームをくれる。
はぁ、もう帰ろっかな。
寒すぎて絵の具もすぐ固まってしまうから、お湯で溶かさないといけないのがめんどくさいし。
その前にヤカン、降ろさないとだから部室にはいかなきゃだけど……。
突如訪れた気だるさを揺すり起こして、私はようやく顔を上げた。ら。
「部長ちゃんおつかれさまでーす」
「うわっ………!?」
廊下に行き倒れる私の目の前にしゃがむ男が居た。
この寒い中、シャツにクリーム色の、袖余り気味なセーターひとつ。
ノーワックスの髪は女の私よりさらさらで、肌も綺麗。
女子力系男子の二年生、兼、副部長だった。
「お、お疲れ様副部長。他の部員は?」
「この寒い中ダルマストーブいっこじゃ絵なんて描けないって帰っちゃったよ~?」
「おのれ……油絵のひとつもやらねえアクリル絵の具のひとつももってねえ、漫画絵ばかり書きやがってあの腐女子ども……」
「部長もオタクじゃん」
「るっせ、私は2.5次オタだからいいんじゃ!!」
彼は未だ寝そべったままの私の髪をつんつん引っ張りながら、小首を傾げた。くそ、女の私より以下略。
「えぇ~~、僕オタクじゃないから~~わっかんなーい」
「黙れ特撮オタク、貴様とバイク乗りのヒーローの映画を何度観に行ったと思う?」
「……ちっ」
その可愛らしい表情から一変、黒い表情をちらつかせる。悪魔だ、悪魔がいる。
彼はそのあと、仕方なそうに笑うと、すくっと立ち上がる。
そして吹っ飛んだ刷毛を拾い上げ始めた。放置して申し訳ない。というか刷毛とキャンバスの存在忘れてた。
私はキャンバスを拾い上げて、彼の持つ刷毛を受け取ろうと手を伸ばす。
「ん」
「持ってくよ」
「私も帰るよ?」
「ヤカン、下げなよ」
彼とはこの美術部(という名の漫画サークル)を立ち上げた仲である。
そう素直に言われれば、素直じゃない私も、指さされた部室にそのまま足を運んだ。
ようやく部室に戻り、キャンバスは教卓に、刷毛を引き出しに仕舞う。
まだ絵は書き始めていなかったので、コートとカバンを手にすればもう帰れた。
「あんたは?」
「僕は制作やるよー? 立体物だけど」
「じゃ、カギ」
部室の鍵を放り投げれば、タイミングぴったりに受け取る。
ツーといえばカーな関係になってしばらくな私たちには、なんの変哲もない日常行為だった。
「部長」
せっかく鍵を投げたというのに、彼が近づいてきて、お返しに手渡されたのは紙コップ。
「?」
彼は後ろ手から茶色い粉をコップに注いで、次にストーブの上のヤカンを手にとった。
「帰るまでのガソリン補給~」
お湯を注がれれば、ミルクブラウンの甘い香り。
「ココア??」
「カフェラテ!」
ふーん、と言いながら早速口をつける。実はコーヒーが飲めないんだけど、これならなんとか飲めそうだった。
ほわっ、とした白い息が目の前を覆う。結露した窓の向こうは、それよりも真っ白な雪で。
この中を歩いて帰るには、温かさもエネルギーも足りなかった。いい補給になる。
「部長」
「ん」
隣で同じく、作業台に尻を預けて副部長は同じ姿勢で同じものを飲んでいた。
ふいに開いた口は、いつも軽いのに今日は重い。
「卒業まであと何ヶ月だろ」
「ちょうど一ヶ月、かな」
この男は、男の癖に小柄で、私とほぼ身長が変わらない。
揃ってコーヒーをすする姿は、外から見たら何に見えるだろう。
「………」
「………」
実は、こんなにいい『相棒』なのに、連絡先を知らない。
この言葉を今言った意味がわかるだろうか。
あと会えるのも一ヶ月足らずだ。
そうしたらもうちらつくものは、それしかない。
でも電話番号やメールアドレスなんて、重々しい個人情報を知る程の仲では、まだ気恥ずかしい関係。
途端、彼のポケットからピンポン、と身近な音がした。
「あー、携帯持ってきちゃだめなんだぁー! 副部長ったら不良~!」
私が茶化すと、私のポケットからも、同じ音が、ピンポン。
「部長こそ……」
「バレたか……」
二人同時に画面を開く。黄緑色の画面が薄暗い部室を照らす。
しかしその通知を無視して、二人で開いたのはメッセージ画面ではなかった。
二人で携帯を揺する。何も言わず、静かに揺すった。
すぐにお互いのアイコンが表示される。
数秒その画面を眺め、変なアイコン……。と思っただろう。
私はすぐにポケットに携帯を仕舞うと、紙コップをゴミ箱に放り投げた。
綺麗に入ってよかった。多分外したら彼が拾ってくれるだろうから。
「ゴチになりました~、じゃ、帰りまーす」
「お疲れ様でーす」
そのまま彼の顔も見ず手を降って部室を出て、私は湿った廊下を思わず走りだす。
ああ、ああ!
最初のメッセージはどうやって送ろう!
スタンプでも作って、見せびらかしてやろうかな!!